【定年後の節約術】稲垣えみ子著『寂しい生活』の発想で生活を変えていく

 

稲垣えみ子著『寂しい生活』は、51歳の著者が節電を発端とし、家電生活を見直し、そしたら新しい世界が見えて来た、という実話です。楽しくてストレスのない生活になったのが見受けられます。

寂しい生活

寂しい生活

 

 

ちなみに電気代は月150円。ガスは契約をやめています。

 

とはいえこの記事は、電気使うな、ガス契約しなくても生きていけるから、そういう節約してみよう! をおすすめする記事ではありません。

 

発想の転換で、結果的には節約につながるよ、というお話。

 

『寂しい生活』では家電をそのものをやめて、家電や所有について、ひいては人生について考えが変わっていく変遷が見られます。

 

なぜこの本を「定年後の節約術」として紹介したいかと言いますと。

 

これは80〜90年代生まれの私たち世代からすると、目からウロコという話ではあまりないのですが(低欲望な世代ですので・・)、高度成長期とともに歩んで来た世代からすると、新しい考え方であり、節約にも有効な手段であると思うからです。

 

周りの同世代は、テレビや電子レンジ、掃除機など家電を持っていない人は多いです。著書と同じく洗濯機や冷蔵庫を持っていない人もいます。私も諸々持っていないですが、困らないし必要性を感じないんですね。このタイプの人間は無駄にお金が出ていかない傾向にあります。

 

けれど、50代や、定年前後の世代では、家電が少ない家はあまりないかもなあと感じているので、新しい発想と捉える方が多いのではないでしょうか。

  

ということで、本書より新しい発想をかいつまんでご紹介します。節約や新しくてためになる発想の一助、この本を読むきっかけになれば幸いです。

 

「電気はない」の前提で生活してみる

 電気があって当たり前の現代。だけど、もし電気がないとしたら? 本当の本当に必要な時にしか使えないとしたら? という前提で生活してみます。

 

・夜帰宅したら暗闇に目が慣れるまで待つ

道端の電灯や月の光がバカにならない明るさに気づく。トイレもお風呂も帰って落ち着く。

 

 ・「とりあえずテレビ」をやめる

帰宅すると見たい番組があろうとなかろうとつけていたが、やめた。テレビは何かを「埋めてくれる」存在なのかも、と思うように。

 

本当にテレビは見なきゃいけない? 電子レンジを使わなきゃいけない?

一つ一つ自分で決めることになり、その日から世界は一変したと板垣さんは言います。

 

私も、たまに家での暇つぶしで「今日は電気がない設定」ごっこをするのですが、発見があって、楽しいです。お金もかからないですしね、この暇つぶしは。

 

 板垣さんは外でも実行します。エレベーターは使わず階段、などなど。

 

「みんな同じ風景を見ているはずなのに自分だけが違う世界を見ているのである。街全体がジム」

 

 家電を手放す

 そんなことをしていると、家電は本当に必要なのか、という発想になっていきます。

 

・電子レンジを手放す

考えてみるとご飯の解凍、豆腐の水切り、時計としてしか使っていなかった。

 

・掃除機を手放す

なぜ掃除が嫌いなのか。考えてみると収納棚を開けて重い掃除機を引っ張り出す、コードが家具に引っかかる・・などにイラっとするから嫌いだった。

掃除機を手放し、ほうきと雑巾で掃除大好き人間に。

 

ついには冷蔵庫をやめた

 冷蔵庫をやめたことで、板垣さんの様々な考察が深まっていきます。最終的には「悟り」の話まで行き着きますよ。冷蔵庫の話は本書でボリュームたっぷり。

 

冷蔵庫をやめてしまったら、身もふたもない現実を生きなければならなくなった。そしてその現実を生きるのに必要なものは驚くほど少なかったのだ。

一回の買い物で使うお金が500円を超えることはほとんどなくなった。

 

そして板垣さんは色々と気づきが出てきます。

冷蔵庫をなくしたことで、すっかり欲がなくなってしまった。絶えず暴走していた欲望が突然、急ブレーキをかけて止まってしまったのだ。

(中略)

こんな程度のちょっとのモノで生きていけるのだと思ったら、不安がなくなった。不安がなくなったら、ストレスもなくなった。ストレスがなくなったら、欲もなくなったのである。欲ってどうやら、不安を慰めるための甘いお菓子みたいなものだったんだな。

 

そして毎日の食事はどんどんシンプルに。ご飯、お味噌汁、漬物、ちょっとした煮物。

で、これが飽きない。 思えば「毎日飽きずに食べられる食事」というのはすごい。例えばお寿司などのご馳走は毎日食べたらもう胸いっぱいだし、食べられない。

 

バリエーションのある食事、豪勢な食事を求める時は、外食でいい。

稲垣さんは料理が趣味だったが、なんであんなに世界各国のスパイスを使っていたのだろう? と変わっていきます。

 

もし野菜などが余って保存したい場合はどうするの? というと、「とにかく余ったものは干す」。

 

この発想はなかったです。実家を出てから「干す」行為をしたことがなかった。野菜に関しては干せないものなどないそうな。

 

生きていくのに必要なものはほんのちょっと

 そして疑い始めます。それまで「必要だ」と思ってきたあらゆるものを、本当に必要なのか、と。

 

タオル、洋服、靴、本、食器、化粧品、鍋、カラトリー。

 

どんどん今までの自分の常識を疑い、どんどんものが減っていきます。

 

一つ一つ見直していくと、自分が暮らしていくのに必要なものはどこまでも小さくなっていくばかりなのです。

 

両親は何かを手に入れることで問題を解決してきた 

そしてそんな生活をするようになって実家へ帰省すると、視点が変わりますよね。

すると母はモノに殺されてしまうんじゃないかと気が気ではなくなってきたそう。

 

両親の思い出話は、所有の夢と楽しさに溢れているのであった。

そんな話をする両親の表情は、間違いなく輝いている。思えば高度成長時代とは、所有の時代だったのではないだろうか。 

両親はこれまでの人生でずっと、何かを手に入れることで様々な問題を解決してきたのです。だから、問題が起きるほどモノが増えていく。 

 

健康そのものだったら問題がないことも 、高齢になって記憶が怪しくなってきたり、体が思うように動かなくなると、もちろん今までのようにはいきません。

 

記憶が乱れ始めた母は、新しい家電だけでなく、溢れ返ったモノたちに苦しめられるようになりました。

それでもモノは際限なく増えていくのです。

新しい機能がこれでもかと搭載された製品は、もはや、最も切実に家事を楽にしてほしいはずの老人には複雑すぎて手に負えないのです。   

 

誰でも年を重ねます。そして衰えていきます。誰も避けて通れないことで、順番なのです。そう思うと、板垣さんの両親に対する想いが綴られる章は胸に迫るものがある。気持ちの高ぶりのようなものが、文面から伝わってきて胸が痛くなる。

 

モノは結局のところ人を救うことはできないのではないでしょうか。消費社会とは、モノを売ったり買ったりすることができる健康で強い人たちのためのサークル活動です。それは一方で、本当に救いを求めている人たちを弾き出していく会員制クラブに成り果てている。

 

胸が痛いですね。。厳しい社会は嫌だよぉ〜〜。

 

衰えゆくのは当たり前です。しかしそれを前提として。体が動くうちに人生や、生活の複雑さをほどき、シンプルにできたらと思います。

 

最後に

 先日亡くなった80代の祖母が、最後の方はやはり家事などが困難になっていました。

実家に帰るとモノがあふれている。広いがゆえに置く場所もたくさんある。

 

だけど、同じものを何回も買ってきてしまう。モノがありすぎるがゆえに管理できない、どこに何があるかわからない、記憶がおぼつかなくなっているからです。本書に出てくる著者の母親と似た状況が見受けられました。

 

本人も、昔のようにもっと掃除や料理をちゃんとやりたいという意思は感じる。だけど高齢になると限界があるというか、無理なんですね。

自分の体が思うように動かない、というのは妙な気持ちがするでしょうし、ストレスにもなっているはずです。

 

最新の家電に助けてもらおうと思っても、複雑すぎるし彼女の手には負えない。

 

そう思うと、本書のように発想を変えていくのは、生活する上でのストレスも減るし、無駄にお金を使うこともなくなる。生活が複雑にならないから、「私は〇〇ができない」と重荷を感じることも減る。

さらに家で完結できないことが出てくるので本は図書館、お風呂は銭湯、など外出の機会も強制的に増えて、それがひいてはセーフティネットになる。

 

自然と体を動かすようになるから健康にもつながる、

 

というように思うのです。

 

体がちゃんと動くうちに、徐々に本書で紹介されている思考を身につけ実践していくと後々も気持ちいいのではないでしょうか。

 

今まで本当に一生懸命生きてきたのだから、無駄金使わずに楽しいことや気持ちよくなることにお金を使って欲しい。人生の最後が苦しみが多いなんて自分も周囲も望んでいません。

 

発想を変えることで、気持ちよく過ごせる人々がどんどん増えていくといいですよね。何ってったって、「考え方をちょっと変えるだけ」なんですから。

 

 

寂しい生活

寂しい生活

 

 

 

おしまい 

 

 

関連記事